あああ
プロフィール 住まい:埼玉県 性別 :男

中山道一人旅14(奈良井宿から)2013年07月19日 17時40分31秒

■奈良井宿-->宮ノ越宿

昨年11月4日に奈良井宿まで歩きいたので、その続きを歩くことにする。奈良井宿から先は鳥居峠越えの山道となる、女房も行きたいと言うので二人旅となった。女房が車中泊はだめだというので、2泊3日観光しながらの旅行となった。
1日目は佐久からビーナスラインを通り美ヶ原、八島湿原、霧が峰をドライブし下諏訪に下りた。前回訪れた諏訪大社下社春宮、万治の石仏にお参りし、塩尻市に泊る。翌日は奈良井宿まで行き、道の駅に車を置いて鳥居峠を越えて薮原宿、さらに宮ノ越宿まで歩いた。その後、宮ノ越駅から電車で奈良井宿駅まで戻った。再度、車で宮ノ越の先にある木曽駒高原でホテルに泊る。3日目は、戻り道奈良井宿に立ち寄り、ゆっくり宿場を散策する。
帰り道は諏訪ICから高速で甲府まで行き、かねて一度行きたいと思っていた山梨県の「ほったらかし温泉]」にいった。「あっちの湯」で絶景を堪能し軽く昼食。この辺りは桃、ブドウ、梨など果物が特産品。温泉からの帰り道、農家の直売所で買った桃は甘くて大変美味しかった(6個、1000円)。その後、山梨と埼玉を結ぶ雁坂峠トンネル(710円)を越え秩父市に出る。飯能、川越経由で19時無事帰宅(走行距離、約660km)。

●奈良井宿-->藪原宿(2013-07-19)
奈良井宿の街並み

奈良井宿の駐車場に車を置き、8時30分駅前に出て宿場の入り口から歩き始める。平日なのと朝が早いので観光客はほとんどいない、宿場は中山道でも最も往時の面影を残している。適度なカーブをえがき、時にはかぎの手などがあり家並みは数百m近く続く。各家々は皆生活をしている。お土産や、喫茶、木工漆器屋、嘗ての旅籠は旅館、薬屋、水場も数箇所ありみな宿場町に溶け込んでいる。
奈良井宿の街並み

高山、金沢、京都など古い家並みを保存しているところは何か所も行ったことがある。街道沿いの宿場町の様子はまた異なった趣を感じる。各家々が観光客相手だけで街並保存できるわけではないと思うので相当の努力と経済的なご苦労があると思う。
宿場のはずれに鎮神社がある。その前を少し行くと道路わきに50cm幅くらいの石段があり、そこが鳥居峠の登り口だ。そこにある古い道標、右奈良井宿、左薮原宿と刻んである。普通道標は正面から見ての方角を示す、この道標は正反対、道標を背にして方角を表すようだ。元々は道の反対側にあったもの?。しかし、反対側は谷側斜面で道標を置けない。平地に在った道標でこれと同じ経験を日光街道のとき見たのを思い出した。
鳥居峠の登り口

少し登ると先ほどの車道と交差、カーブする車道を100m位行く。右手に2m位の石畳の良く整備されている山道がある。ここからが鳥居峠の登山、石畳の道は2、3百メートル続く。林の中の道は涼しく比較的歩き安い。山の斜面を少しずつ高度を上げて、何度か木の橋があって沢を渡る。道ばたには石仏、庚申塔、馬頭観音などがある。途中九十九折の登りもあったが、足場が良いので上り道もそれほどきついものではなかった。
一里塚(鳥居峠)を過ぎるとまもなく峠。峠に近づいても木々が生い茂っていて視界が開けない。林道に一度出て100m位で鳥居峠の頂上。9時35分鳥居峠着。途中、中学生男女15,6人と先生らしき引率者2人の集団に追い越されたが、ここで追い着いた。水場があったので飲んでみる。
標高が1300m程度なので木々が生い茂り見晴らしが良いわけでもない。小休止しただけで下る。
鳥居峠、熊除けの鐘

下り道は100mも行くと再び林道に出た。薮原宿に下る道案内版がある。道案内のところに「熊に注意」の看板と鐘がある。「熊も人が怖いのです」と言うようなことが書いてある。登り道(塩尻市側)には1つも無かったが、下り道(木祖村側)には3箇所くらい熊よけの鐘が設置されていた。熊よけの鈴を付けた杖も持参し、鳴らしながら山道を登ってきた。備え付けのものがあると持参したものより何倍も大きな音が出るので安心できる。
下りはじめはほとんど平坦な道となっている。道幅も1m以上あって歩き易い。10分ほど行くと丸山公園という所に出る。ここには芭蕉の句碑がある。今回知ったのだが、芭蕉は奥の細道の旅に出る1年ほど前に、美濃から信州を旅(更科紀行 :木曾の橡(とち) うき世の人の 土産かな)している。それで、中山道には芭蕉の句碑が多く残っている。ここまで中山道一人旅で何度か芭蕉の句碑を見かけ、何故ここに芭蕉の句碑があるのか不思議に思っていた。更科紀行を知って芭蕉の句碑が中山道にある理由がわかった。
鳥居峠下り道 藪原の集落
途中急な下りも多くなく淡々と峠を下る。下りもヒノキ、モミなどに覆われ見晴らしのいいところは一か所もない。一瞬、藪原の集落を垣間見れるところがあったので写真に収めた。1kmも行くと林道に出て道案内がある。もう薮原宿は近い、消防署のある十字路に出ると舗装されている。道案内やトイレも近くにあった。トイレにより小休止、自販機で水を購入する。夏なので水分補給が重要、朝ホテルで貰った氷水を入れた魔法瓶2本は既にからになっていた。
登り始めてから2時間15分、10時20分藪原の集落到着。峠越え、中学生一行と遭った以外は早朝のためが誰とも遭わなかった。

藪原の集落入口

藪原集落は、水のみ場が何箇所もある。どこも清潔に保たれ柄杓がおいてあり、誰でも冷たい水が飲めるようになっている。また、この他の所でも何度か経験したが、見知らぬ我々に、「ごくろうさまです」と声をかけてくれる。源流の里というのがキャッチフレーズらしい。
中央本線に出る少し手前、尾州徳川家の鷹匠役所跡がある。尾張藩の鷹狩用の鷹を確保飼育していた。その少し先が追分、中山道と飛騨街道(野麦峠越え)の分かれだ。旧中山道は線路で分断されてしまっていて線路の向こう側に続く。追分から20m位先に行ってから線路沿いの狭い道を戻り、跨線橋を渡る。

藪原宿 防高塀、水路にからくり人形取付け

なんの変哲もない民家の脇の道端、藪原宿本陣跡を示す白い木碑があった。藪原宿は飛騨街道の分かれ、また翌日に鳥居峠越えを控え、木曾路でも最も大きな宿場であった。和宮も宿泊している大きくて賑わった宿場も、JRによって分断されたり、大火に会った手ため古い家が残っていない。往時の面影は薄い。
元禄の大火の後にできたという、防火高壁跡(盛土を石垣で囲んで松を植えた)がある。その脇の水路のところで、70歳位の年寄り2人が、水路に何かおもちゃのような仕掛けを取り付けている。見てみると15cmくらいの水車を動力として人形が綱を引くように動くカラクリみたいなものを取り付けている。説明してくれるのだが言葉が良く理解できない。この土地の祭りの様子をこの人形であらわしているらしい。気が付くと少し古いもので、大きさが1mもある水車で動き、同じようにまつりの様子を表現したようなものもあった。傍に「藪原宿街道にぎわい水車」と書いた看板が建っている。
藪原宿 お六櫛問屋

お六櫛は木曾の伝統工芸品である。お六は元々は妻籠宿の娘だったらしいが、櫛の材料となる木が鳥居峠で多くとれたことから藪原が主生産地になったという。木祖村藪原、青柳和邦は平成14年、篠原武は平成20年「現代の名工」に認定されている。雅子妃殿下、秋篠宮妃殿下ご成婚の櫛は青柳の作である。
藪原宿も高札場跡で終わる。駅方面に向かう地下道入り口の前を過ぎ、少し進むと、D51機関車が目に飛び込む。広場があり、機関車の前に藪原の一里塚跡碑があった。ここから野麦峠方面からくる広い道にでて、JR中央線のガード下を過ぎると200mで国道19号に合流する。
 
 
●藪原宿-->宮ノ越宿(2013-07-19)
国道19号は大型車の往来が激しい。両側に山が迫り、JR中央本線、国道、木曽川が並行に走る。並行とは言っても国道19号やJRは時々トンネルに入る。しかし、中山道は現国道、旧国道と何度も交差したり川を渡ったり、基本的には木曾川沿いに進む。
吉田洞門

左手の山が国道に迫って覆いかぶさり半トンネル、さらに国道が木曽川に覆いかぶさている吉田洞門にでる。洞門は川沿いに歩道があるのでのんびりと歩き易い。歩道がないと、排気ガスもありトンネル内の歩きはとても危険で無理。国道脇、右側の歩道をゆっくり進むと吉田橋に出る。橋に歩道がなく、車に注意しながら反対側に渡っての吉田歩道橋で木曾川を渡る。
橋を渡ると川沿いに進む道があり、こちらを進むような案内があったので川沿いの道を進む。道ばたに「サル、イノシシ、シカなどを山に追返す防護柵の設計図あげます、負けるな獣に」と書いた看板がある。
300m位で国道19号に出る。合流した先に橋があって国道はその先の山吹トンネルになる。中山道は、橋を渡らず国道を横切って、川沿いの旧国道を進むことになる。旧国道を横切る前に、国道19号を50m位戻った反対側(歩道はない)草むらの中に下吉田の一里塚跡碑がある。藪で行けないので道の反対側からズームして石碑の上の方だけ写真に撮る。
旧国道はもう何十年の使っていないようだ。黄色いセンターラインがまだはっきりしているかと思うと雑草や木で道路がおおわれてしまったところもある。サルかイノシシ捕獲用の檻もあった。道の真ん中に白骨化した動物の頭骸骨があった。角があるので鹿だ思う。
川沿いの旧国道は、国道19号が山吹トンネルを出たところとで合流する。国道に出て、緩やかな下り道を10分も進むと前方に大きな看板、宮ノ越駅の文字が見えた。国道を離れ宮ノ越宿方面に向かう。
宮ノ越 巴淵(木曽川)

500m位で小さな公園になっている巴淵(ともえふち)にでた。ここは2週間ほど前にNHK-BSの番組「こころ旅」で日野正平が来たところ。番組では川の淵まで降りていたが、疲れているので川には下りず写真を撮っただけ。巴淵には伝説がある。巴は木曽義仲の愛妾の名(巴御前)である。また、川の流れが巴の字になっているからともいう。
巴淵を出るともう宮ノ越。宮ノ越は木曾義仲(源義仲)に関する史跡が多い。先ほどのトンネルの名前の山吹も義仲の愛妾の名だそうだ。道はゆるいカーブをえがいてのんびり続く。かつての宿場の雰囲気は残るが、古い家並みはほとんど無い。有栖川の宮御休憩跡の石碑があった。明治天皇の行在所碑はたくさんあるが宮様のものは珍しいそうだ。
宮ノ越 木曾義仲旗揚げの地

さらに進み宿場は近い。義仲の館という観光案内看板がやたら目にはいる。宮ノ越は木曾義仲が平家追討の兵を挙げたところとされる。「義仲旗挙げ祭り」というものもあるようだ。源氏の旗挙げといえばは源頼朝が治承4年(1180年)伊豆で平家追討の兵をあげた。同じ年木曾義仲のもこの地で挙兵している。
宮ノ越宿は駅と義仲館を結ぶ義仲橋あたりからはじまる。今回はここまで、この先の宮ノ越宿に進まないで駅に向かう。13時ちょうど宮ノ越駅着。13時13分松本行き電車で奈良井宿まで戻る。

●データ
アルバム:中山道一人旅14<--クリック
里程、万歩計:奈良井宿->薮原宿(5.4km:11726歩)、薮原宿->宮ノ越宿(7.5km、11580歩)


中山道一人旅13(安中宿から)2013年04月25日 11時45分50秒


■安中宿-->坂本宿(横川)
今回が日本橋から横川までの最終旅程日、朝5時30分家を出る。これで昨年6月に歩き始め、11月までに歩いた坂本宿(横川)から奈良井宿までと合わせると、中山道69次の内、半分の34宿を歩いたことになる。
事前の予報で天候が思わしくなかったが晴天で暖かい1日となって、少し日に焼けてしまった。3月末から、何かと忙しかったり旅行をしたこともあって、しばらく歩いてないので脚力に少し不安がある。前回頑張って安中宿まで来たので、今日は比較的距離は短かいので余裕を見てゆっくり行きたい。心配した通り、松井田宿を過ぎてから緩い登りになるので、腰がかなり痛くなってきて横川に入って最後はきつかった。
一人旅なので無理をせず、天候にも恵まれ何とかマイペースで無事歩行できた。次回は奈良井宿から始めるが、5月は目の手術があったり、調査も全くしてないので7月になってしまう。木曾山中でも暑いと思うのでもっと先になるかも、これも一人旅の気楽さである。
●安中宿->松井田宿(2013-04-25)
安中宿、本陣跡碑と安中宿マップ(安中郵便局前)

8時30分碓氷川の河川敷にある「ひさよし緑地公園」から歩き出す。旧中山道は国道18号に出て下野尻交差点を渡り安中市街地(県道125号線)に入って行く。交差点辺りから安中宿となり、間もなく道の右側に宿場の入り口である「下の木戸」跡碑がある。
安中には古くからお城があり、徳川譜代の井伊家、水野家、堀田家、板倉家などが藩主を勤めた。
伝馬町交差点から右折し100m位、坂を上った正面に旧碓氷郡役所、道を挟んで安中教会(群馬県最古の教会)があり、奥に新島襄記念堂などが見える。この辺り一体が安中城址である。教会の前の道を西に進むと、郡奉行役宅、更に進むと武家長屋がある。
武家長屋

また、安中は日本マラソンの発祥の地といわれている。かつて藩士の心身鍛錬を目的として安政遠足(あんせいとおあし)というものが行なわれてた。毎年5月の第2日曜日に行われ、安中から碓氷峠の熊野神社まで約30km、侍の格好など思い思いの衣装で多くの人が参加する。今年は5月12日、それを知らせる幟がここかしこに立っていた。
武家長屋から中山道に戻って、市役所入口を過ぎると大木戸跡があって、ここまでが安中宿である。
新島襄旧宅
ここから少し行くと新島襄旧宅入口の案内がある。襄旧宅とあるがここは両親の家、襄が生まれたのは神田一ツ橋安中藩江戸藩邸で、ここにはたった数週間住んだだけだという。大河ドラマ放映の最中でもあり、案内板のところを左折、いかにも旧城下の雰囲気を醸し出す道を5、600m進んで旧宅を見に行く。
朝早いので誰も観光客は誰もいない。庭を掃除している管理らしき人と犬を連れて散歩中の人が1人いた。家の中に上がって見ていってくれと言われたが横川まで行くのでと言って上がらなかった。
原市の杉並木
旧中山道に戻って安中実業高校前を過ぎ、国道18号との交差点をそのまま直進する。こちらは国道と違って車は少ない静かな街道をのんびり進む。500mも行くといい雰囲気の杉並木となる。原市の杉並木と言いかつては数百本もあったという。今では大きなものは20本程度。それでも数百mに渡って若い木が何本も植えてあり、嘗ての面影を取り戻そうという努力を伺うことができる。
原市郵便局の手前左側に、明治天皇御小休所碑と原市高札場跡碑が建っている。ここは五十貝家茶屋本陣があったところでもある。

●松井田宿->坂本宿(横川)(2013-04-25)
妙義山

雪の浅間山
11時35分、松井田交差点から国道18号から旧松井田町市街地に向う。この辺りから正面には雪を被った浅間山が美しい、そして荒々しい姿の妙義山もまじかに見える。
松井田宿は2本陣、2脇本陣、旅籠が14軒、家数5百余あったという。しかし現在はほとんどその面影がなく。街並みは静かで旧宿場町の雰囲気を残しているのに、本陣、脇本陣などの跡碑なども全くなく、残念。旧中山道は松田町の街並みを過ぎ、松井田警察の手前から県道を左に別れ更に細い道に入ってゆく。
県道と分かれてから200mくらいで新堀一里塚跡碑があった。南に10m、近くに塚がのこっていると説明板に書いてあったので、先に進んで説明板の後ろの藪の裏側に行って見たが発見できなかった。後で調べたら少し後戻りすれば発見できたらしい。
五料の茶屋本陣お西
のどかな道を信越本線の線路脇を並行に、そして時には交差しながら15分位歩くと線路の向こう側に五料の茶屋本陣がある。かつて街道筋には宿場と並んで茶屋本陣(大名の休憩場所)も数多く置かれた。しかし、当時の建物が現存するのはあまり無い。ここには、「お東」、「お西」と2つの茶屋本陣が残っている。
山間の道を更に進んで、碓氷神社のところ御所平交差点で国道18号に一旦出る。さらに国道と並行する細い道を行く。山道の途中、坂(丸山坂)のところに夜泣き地蔵と茶釜石がある。この石を叩くと、カンカンと茶釜をたたいた時のような不思議な音がするという。自分も江戸時代の旅人と同じように叩いてみた、確かにコツンコツンという音でなくカンカンと少し澄んだ共鳴音がする。
茶釜石
小山沢の橋を過ぎて百合若大臣足踏石なるものがある。石には足跡のようなくぼみがある。説明板によると、「よし、あの山を射抜いてやろう」といってこの石で踏ん張ったところ石が窪んでしまったそうだ。碓氷川の向こう側の山に2つの穴があるそうだが、どれか良く分からなかった。
腰がかなり痛くなってきたがここまで来れば横川も近い。前に来たときは駅より坂本寄りの関所のある方の街並みしか知らなかったが、信越線と並行する、駅手前の方が旧街道の趣が残っている。
14時15分無事駅到着。駅のホームに入るのは今回が始めてである。ホーム脇にはドイツから輸入したという線路が展示してある。信越線開通当時、日本では作れなかったことを偲ばせる。
●データ
アルバム::中山道一人旅13<--クリック
交通費:車(家<->安中、90km×2)、JR(横川->安中、320円)
食糧費:お茶2本、缶コーヒー1本 390円)、
里程、万歩計:安中宿(ひさよし公園)->松井田宿(10.1km:18809歩)、松井田宿->坂本宿(横川駅)(8.0km、10186歩)



中山道一人旅12(本庄宿から)2013年03月28日 20時29分24秒


■ 本庄宿(神保原)-->安中宿
27日(水)に行こうと思っていたが26日にワールドカップ予選日本対ヨルダンの試合(結果は残念ながら1対2で負け)が夜23時からあるので28日に変更する。天気予報では28日はあまり良くなかったので、サッカー優先で28日の朝の様子で雨模様なら延期かを決めていた。
ところが27日になると朝から寒くて1日中小雨模様、28日は予報では午前中晴れ、夕方から雨となった。実際は朝から夕方まで晴れで結果オーライ。朝4時起床4時50分出発、2週間ほど桜前線の北上を待った甲斐あり、家の辺りは既に桜は満開。朝から暖かい1日で、高崎辺りは桜もかなり咲いていて絶好の一人旅になった。
また、今回は寄り道をあまりしなかったので、時間的にも予定より早く安中駅まで行くことが出来た。
● 本庄宿(神保原)->新町宿(2013-03-28)
7時調度に神保原のスーパーに車を置かせてもらい歩行開始。神保原北交差点で国道17号を渡って県道392号に進む。20分程で金窪神社に早速お参りし今日一日の無事を祈願する。更に畑時能(ときよし、新田義貞の家臣で鎌倉討伐に参加)首塚跡碑前などを通過し、勅使河原北交差点で国道17号に合流。交差点手前に一里塚跡があり脇に祠が祭ってある。
写真は一里塚跡石碑(左側の黒い石)
勅使河原 一里塚跡碑

交差点を過ぎると神流川にかかる。神流川橋は両側に常夜灯がある。いま在るのはレプリカで本物は近くの大光寺に移されているが見透灯籠(みとうしどうろう、本庄側のもの)があった。橋を渡り西側は群馬県高崎市(後で調べたら新町は間に藤岡市があり高崎市の飛び地である)、そこに神流川古戦場跡碑がある。本能寺の変の跡、関東管領で在った信長家臣の滝川一益と小田原北条氏との間で戦いがこの辺りであり、3千人以上が亡くなったという。
数分歩くと中山道は国道と別れ、新町宿にはいる。ここにもレプリカの新町宿常夜灯がある。本物は高崎市の大八木諏訪神社にあるそうだ。
写真は新町宿入り口にある常夜灯、道しるべ「従是 右碓氷峠十一里 左江戸二十四里」
新町 常夜灯

8時15分JR新町駅入口交差点に明治天皇行在所公園に着く、ここで一休み。明治天皇が訪れた場所は、日光街道でも何箇所も在った。中山道を歩いていると方々に明治天皇の訪れたという所がある。鉄道も無い時代、よくも健脚で体も丈夫であったと思う。行在所から300mくらい奥に入ってお菊稲荷があるので参拝する。大黒屋のお菊は新町宿で評判の飯盛女。しかしある日突然動けなくなってしまう。大黒屋からはのけ者にされたお菊、普段から信仰していた稲荷神社の小屋で村人から養生を受け奇跡的に全快した。その後稲荷神社の巫女になったとか。
新町宿には、本陣1、脇本陣2、旅籠43・・・も在ったが、当時の面影は薄い。本陣跡木の標識がブロック塀の脇に立っているだけ、寂しいかぎり。高札場跡が残っているようだが見逃してしまった。

-新町宿->倉賀野宿(2013-03-28)
写真は上州櫓作り(屋根の上に小さな屋根が乗っている)の家、今回の旅で数件見かける
上州櫓造り(屋根の上に更に小さな屋根)

新町宿は温井川まで終わり、ここに比較的大きな弁財天公園がある。公園の片隅、橋のたもとに、こじんまりと赤い鳥居の弁才天が祭ってある。少し行くと右側に白壁の綺麗な川畑家住宅がある。
新町宿から1kmくらい歩き関越自動車道の下を潜る。しばらく行くと正面に鳥川の土手が見えるので土手(サイクリングロード)に上がる。途中で土手を降り民家の間の狭い道を通る。持って行ったガイド地図を参考にしながら200mくらいで、また、鳥川のサイクリングロードにでる。
写真正面が烏川の土手(サイクリングロード)
サイクリングロード 桜は2分咲きか
天気は晴れで温かい、烏川の土手(サイクリングロード)を歩くのはは実に気持ちがいい。振り返ると広い河川敷には運動場が何面もある。遠くに先ほど下を通った関越道も見える。前方を見ればこれから渡る柳瀬橋がある。お腹かが空いてきた、時間は9時、土手に腰を下ろして持ってきたおにぎりを食べながら小休止。
柳瀬橋を渡ると高崎市岩鼻町。ここは岩鼻代官所(陣屋)のあったところ。ある資料によれば、岩鼻代官所は上野(の国)の幕府直轄地と旗本領などのほか武蔵野国六軍を支配し、世直し一揆の鎮圧に江戸の北辺の守りの中心であったという。また、今は静かな田舎町の風景だが、一時期明治政府は、岩鼻県の県庁をこの地に置いた。
写真は日光例弊使街道との別れ、道しるべ「従是 右江戸道 左日光道」
日光例幣使街道の追分  御堂の裏が例幣使街道

広くて静かな道を淡々と進み、国道17号の下をぬけ、上越新幹線の下を過ぎて10分程度で倉賀野町下町交差点がある。この交差点は三叉路になっていてここが日光例幣使街道との追分になっている。高崎方面から来た例弊使一行は、中山道と分かれて左に向かい下野国日光東照宮に向かう。追分には常夜灯と道しるべがある。
追分から倉賀野宿になる。かつての倉賀野宿を印すものはあまり無い、寂しい限りだ。スーパーの駐車場脇に小さな本陣跡碑、少し先に脇本陣跡碑があるのみ。ここでも高札場を見逃したようだ。スーパーの駐車場手前の角には倉賀野宿石碑、道祖神などがあった。
 
 
 

-倉賀野宿->高崎宿(2013-03-28)
倉賀野宿をでるといつの間にか片側2車線の広い道路になり歩道も広くなってきた。工場や店が2kmも続き、道路脇には川が流れている。片側だけだが比較的若い松の並木が300mくらい続くところもある。「国文化歴史街道」と呼んでいるようだ。ただ、現状では何の感銘なく歴史的なものも感じられない。100年ぐらい経って松並木が大木になれば違ってくるのかも知れないが。
写真は高崎城跡、乾櫓
高崎城址公園  乾櫓

高崎市の中心街あら町交差点、右(東)に400m行けば高崎駅西口、左(西)に400m行けば高崎城跡(市役所)。左折して20mのところにあら町諏訪神社がある。度重なる火災から守る為、本殿は総漆喰造りとなっている。中山道に戻らず、このまま市役所方面高崎城址を目指す。
高崎藩のことは勉強不足で良く知らなかった。水戸天狗党にまつわる話のときには、何度も幕府軍として高崎藩の名前が出てくる。高崎城は、慶長三年(1957年)徳川家康の命を受け井伊直政(家康側近で後に彦根藩初代藩主)が築いたのが始まりだそうだ。
また、高崎宿には本陣、脇本陣がない。諸大名が高崎城下での宿泊を敬遠したためだという。ちなみに中山道で本陣、脇本陣が無かった宿場は他に岩村田宿(長野県佐久市、岩村田藩1万5千石の城下町)がある。
群馬県は戦後4人も総理大臣(中曽根さんは高崎出身)が出ていることもある為か、道路が広くしかも市街地の電柱地中化が進んでいるので町がすっきりしている。
城跡から中山道には戻らず、お堀端をそのまま北上し本町二丁目交差点で中山道に出る。旧中山道は本町一丁目交差点を直進する。道は狭くなり高崎神社の北側を通り抜ける。烏川にぶつかる手前で右折(北進)し君が代橋に向う。君が代橋で国道18号(高崎市から新潟県上越市)に合流。
-高崎宿->板鼻宿(2013-03-28)
写真は君が代橋から見える高崎観音像(肉眼ではかなり小さい)
君が代橋から高崎観音像
烏川に架かる君が代橋の上からはるか遠方、山の上に高崎観音が見える。高崎はこの観音様とだるまが有名だ。高崎観音は小学生のとき遠足で来たような記憶がある。
橋を渡ってから旧中山道は、君が代橋西交差点で国道18号と分かれ進路を北に取り榛名道を進む。
榛名道を300mくらい歩いて信号機のあり安中方面の看板がある。ここはそのまま直進し、さらに100mくらい行ってから静かな通りへと左折する。ここが榛名道と中山道の別れで道しるべ(右はるなみち、左くさつみち)がある。
写真はだるま製造店の庭先
高崎だるま
この辺りは高崎市豊岡町、ところどころ民家の軒先や庭先に「だるまあります」の旗が出ている。高崎だるまの製造販売店だ。
しばらくすると左手に豊岡の茶屋本陣がある。見学無料と書いてあったが、門を入って庭先を覗いただけで先を急ぐ。茶屋本陣とは大名の休憩所である。中山道は上豊岡の交差点から再び国道18号になる。
写真は一里塚と手前の桜
桜は3分咲き、奥の小さな山が一里塚

国道脇の歩道を歩かないで、並行している碓氷川の堤防の上を進む。交差点から5分ほどで藤塚の一里塚がある。土手から1本見事な桜があり、その後ろに小さな小山があってそれが一里塚だ。12時50分、ここで桜を見ながら持ってきた最後のおにぎり一ケを食べる。実は高崎でラーメンを食べるべくして事前に調べておいたのだが、地図を忘れてしまい、昼を食べてなかった。
一里塚から国道沿いの歩道を3kmほど淡々と歩くと板鼻になる。途中に群馬八幡神社の大きな鳥居(八幡大門)があり、その手前に大門屋というだるま屋があり、店の前に大きな石のだるまが置いてある。中を覗くと左右に赤と金の大きな1m位の1対のだるまが飾ってあった。
板鼻下町交差点で国道と別れ板鼻宿方面に入って行く。分岐して直ぐに道祖神がある。この道祖神は信州に多い人物道祖神だ。この後も人物道祖神が何体かあって少しずつ信州に近づいていることを窺わせる。
写真は板鼻本陣跡にある和宮資料館
和宮資料館

板鼻宿の本陣があった場所には板鼻公民館が建っている。公民館の前に本陣跡の碑があり、公民館の裏手には和宮資料館がある。和宮の宿泊した建物が資料館になっている。
板鼻宿を出て、鷹巣橋を渡ると安中市仲宿である。
仲宿から安中駅までは斜めに真直ぐ700mほどで行くのだが、旧中山道は途中少し離れて碓氷川の土手に一旦向う。この付近に一里塚跡の木碑があるらしいのだが、事前の調査で見落としていて確認できなかった。土手に突き当たってから直ぐ左折しもとの道に向うのだが道を間違えた。土手沿いに歩いて安中バイパスの橋の袂まで行ってしまった。
安中宿は橋の先になるので、今日は安中駅までとする。駅には「八重の桜」ポスターがあった。15時16分の電車に乗り高崎駅で乗り換えて神保原駅まで行く。家に着いたのは18時20分。

-データ
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交通費:車(家<->神保原、65km×2)、JR(安中->神保原、480円)
食糧費:TRAIAL(お菓子、お茶、その他 777円)、
里程、万歩計:神保原駅->新町宿(3.9km:7159歩)、新町宿->倉賀野宿(5.9km、9248歩)、倉賀野宿->高崎宿(6.0km、8366歩)、高崎-->板鼻宿(7.2km、11294歩)、板鼻宿-->安中駅(3.3km、4740歩)
 


中山道一人旅11(熊谷宿から)2013年03月07日 08時49分31秒

■熊谷宿-->本庄宿(神保原)

3月に入って今週は気温が上がってきた。下はオーバーズボンなし。歩き出してすぐに汗ばんできてセータもコートも脱ぐ。
今日は最低でも神保原、できれば新町宿まで行きたい。次々回横川駅までのことを考えると次回は板鼻宿まで行くのがちょうど良い。だが板鼻では帰りの交通手段がない。最寄りのJR駅は群馬八幡か安中でバスもいい時間がない、どうしても次回は安中宿まで行く必要がある。それを考えると今回は新町まで行くのがベストとなる。
中山道は江戸から京都までなのに、大宮までは北に向い、高崎まではほぼ北東に向かう。むしろ甲州街道で甲府、諏訪に行くほうが近かったと思うが、昔の旅人は上州を通ったのは何故だろう。武州路も今日の本庄宿で終わり、新町宿から上州路とになる。
●熊谷宿->深谷宿(2013-03-07)
写真は熊谷本陣跡碑
熊谷宿本陣跡碑

家を6時20分に車で出発、7時35分に熊谷駅南、万平公園付近の駐車場着。8時駅コンコースを通り抜け駅北口に出る。早速駅前の通りを北に向かい国道17号筑波交差点に出る。交差点から左手に曲がり市役所入口交差点を過ぎて右手奥にある高城神社に寄る。ここには熊谷直実の氏神であり、現在の社殿は忍城主によって再興されたものらしい、大きな鉄製の大きな常夜灯がある。今回の旅の無事を祈願し国道17号に戻る。

写真は八木橋百貨店前の賢治の歌碑
八木橋デパート前 宮沢賢治歌碑

300mほど進むと道路の反対側に熊谷宿札の辻(高札場)跡石碑、本陣跡石碑と説明板があるので確認する。さらに200mほどで八木崎百貨店がある。百貨店の前には大正2年、宮沢賢治が秩父地質調査に来たとき熊谷に宿泊し、その時詠んだ歌碑がある。
百貨店の先の交差点を右に回り込み県道341号を30mほど行って左に斜めに細い道を進むのが旧中山道。実は旧中山道の上に百貨店の建物が建っている。百貨店の裏手に熊谷寺があるので寄り道をする。寺のあるところは熊谷氏の館があったとされるところ、門が閉ざされ中には入れなかった。
中山道は(秩父鉄道)石原駅入口交差点手前で国道17号に合流する。200mほどで右手に日産自動車の販売店があり、左に曲がると小さな公園がある。公園の中に「秩父道志るべ」「秩父観音巡礼道」「寶登山道」石碑がある。
国道17号と秩父方面に行く国道140号の交差点に熊谷警察署がある。熊谷警察署の前にピンクの花がほころんでいて桜のように見えた、反対側からなので良く分らなかったが帰って写真を拡大してみると梅ではない、桜のように見える。石原北交差点で旧道は斜め左に進む。少し行くと右手に新島一里塚がある。石で囲んだ塚の中心に数メートルのところで切り飛ばされているケヤキの大木が立っている。かなり痛々しい。一里塚を過ぎて間もなく左側に「従是南忍領」忍領石碑がある。
歩き始めてから2時間近く10時、スーパーベルク玉井店でトイレ休憩。持って来たおにぎりを一個食べる。ベルクを出ると深谷市に入る。2km位淡々と歩くと大きな銀杏の木が道の両脇に目立ってくる。この辺りは嘗ては大きな銀杏、松がきれいな並木だった面影が窺える。
写真は見返りの松
見返りの松
深谷市国済寺町、ヤオコーの手前、左側に御岳神社があり一心行者像、普覚行者像がある。鳥居の前に「木曾御嶽山遥拝所」と刻んだ石碑がある。旅人は遥か何百里も離れた木曾御岳山を偲んだのだろうか。深谷市原郷で中山道は国道17号と交差して直進。交差点に見返りの松(現在のは2代目)がある。
煉瓦造りの深谷駅
深谷駅

見返りの松を過ぎると間もなく右側に(東)常夜灯があり深谷宿に入る。深谷は深谷ねぎで有名であり、明治の実業家渋沢栄一の生まれたところでもある。またかつては煉瓦の生産地でもあった。深谷駅に寄ることにした。駅前の広場には渋沢栄一の銅像がある。そして駅舎は東京駅を思わせるような煉瓦造りである。東京駅の赤レンガをはじめ、赤坂迎賓館、上野国立博物館、法務省旧館の煉瓦も深谷で作られた。
昼には少し早いが駅前のラーメン店「匠」に入る。事前の調査をしてなかったが、持っていた地図に載っていたので入ってみる。和風醤油ラーメンを食べたがけっこううまい。少し濃厚で魚介味、ちゃーしゅうーは全く臭みがなく、トロッと口の中で溶ける。メンマもおいしい。先日鴻巣市のひな祭りに行ったとき、有名な「次念序」でつけ麺を食べた。ここのラーメンはそれ以上においしい。また近くに来たときは食べてみたい気がする。かつて浦和にあった有名な「匠」と関係あるかどうかは分からない。後でWebで調べたら浦和にあった「匠」とは違うようだ、ラーメンランキングには出ていないし評判も必ずしも良くない。

● 深谷宿->本庄宿(神保原駅)(2013-03-07)
写真は深谷宿本陣遺構跡
深谷本陣

駅前から中山道深谷交差点まで戻り左折。直ぐに道路右側、深谷宿本陣遺構案内板がある。少し行くと「中山道 深谷宿本舗」と書いた看板を出している、古い土蔵造り、門構えの店のようなところがある。中に入ると先ほど遠くから見えていた煉瓦の煙突がある。ここは嘗ての煉瓦工場だったところのようだ、今はレンタサイクル、映画館、喫茶店などをやっている模様。だれも客はいない。
深谷宿は(西)常夜灯までで終わり。ここは嘗て枡形になっていた場所。このため通りは数メートルほど左に折れてから再び直線になっている。常夜灯を300m位過ぎて左手JRの踏切の先に清心寺がある。門を入った左手に平清盛の異母弟、平忠度の供養塔がある。忠度は一の谷の合戦で岡部六弥太に打ち取られた。この話は平治物語に記されているそうだ。
旧中山道は深谷市宿根で国道17号を渡り、少し脇道に離れた後、国道17号を進む。岡部北交差点を過ぎて源勝院、岡部交差点を過ぎて岡部六弥太が開いたとされる普済寺に寄る。源勝院は岡部藩主安部氏の菩提寺、代々藩主の墓がある。また、普済寺には平忠度の辞世の句碑(行きくれて木の下陰を宿とせば 花やこよひの主ならまし  忠度)がある。六弥太が首を打ち取ったとき鎧に文があったので忠度であることが分かったという。
普済寺を出て300m位で国道17号と分かれ、500m位で県道259号との交差点、右に行くと道の駅「おかべ」、左はJR岡部駅方面。旧中山道は更に直進、右手にある中宿歴史公園による。ここは奈良時代の倉庫が発掘された場所らしい。公園の中には校倉造りの建物が2棟あった。
旧中山道に戻り少し行くと、「百庚申 直進」の案内板がある。案内板に従って細い方の道を直進、また少し行くと案内板があり右手に曲がる。100mほどの切通しの坂道を下って行くと左側の斜面に沢山の庚申塔がある。そこを過ぎると急に開けて国道17号深谷バイパスにでる。
写真はネギ畑
ねぎ畑
旧中山道は歩道橋で国道17号のバイパスを渡り田舎道を滝岡橋方面に向かう。橋を渡ると本庄市である。この辺りはねぎ畑が多い。有名な深谷ねぎだと思う。途中少し道を間違えたようだが、古い集落の藤田、牧西、傍示堂地区を抜け、日の出四交差点で国道17号に出る。中山道はそのまま直進し本庄市街に入る。
 
写真は本庄城址
本庄城址

「中山道交差点」で右折し本庄城址に寄り道をする。200m行って左折、更に200m右手の奥が城跡である。城跡には城山稲荷神社がある。裏手には大きなグラウンドがあって運動公園になっている。かなり疲れてきた、残っていたおにぎりを1つ食べ小休止。トイレもある。公園の南側にある八坂神社に参拝し県道392号(旧中山道)に戻る。
写真は本庄宿本陣門
本庄市歴史資料館脇、本庄宿本陣門
昔の街並みの雰囲気を微かに残す旧中山道を歩きながら本庄宿本陣門を目指す。本庄宿本陣門は、中央三丁目交差点右折し、100m行ったところにある本庄市立歴史博物館にある。博物館の入り口脇に門がある。博物館は旧本庄警察署の建物を使っている。見学者は誰もいないが管理人のような人がいて、「今日はどこから来たのか」尋ねられたので「熊谷からです」などと言葉を交わす。中に入っていいが4時30分閉館なのであまり時間がありませんという。結局中には上がらずパンフレットを貰っただけで中山道に戻る。
かなり疲れてきたが何としても神保原まで跡4kmは歩きたい。中山道に戻り1km位歩くと右手に金さん(金へんに賛)神社がある。本庄宿はここまで終わり。旧中山道は、神社を出て千代田三交差点を右折し国道462号に出る。すると歩道のコンクリートの石畳に中山道の宿場名が書てある。
少し行って歩道橋手前で左折し、先ほどの千代田三交差点から来る県道392号に合流する。
写真は神保原ホームにある七福神
神保原駅 七福神

県道に合流してから1kmくらい行くと「上里町」の標識があり上里町に入ったことがわかる。左側の畑の中に高さ数メートルの小山があり赤い鳥居が立っている。浅間山古墳だ。小山に上って行くと石室の入口があった。中を覗いたが何もなかった。
さらに少し行くと、民家の角に泪橋の由来碑と2基の欄干石がある。北千住宿や大宮宿などにも泪橋があったと思う。ここの由来では街道筋の伝馬の苦役を嘆く泪のようだ。
400mほど歩き神保原交差点から左折し5分位で17時25分神保原駅到着。何故か駅のホームには七福神像がある。ちょうど良く17寺28分の湘南快速国府津行きがすぐにあり17時55分熊谷到着。家に着いたのは19時40分。

●データ
アルバム:中山道一人旅11<--クリック
交通費:車(家<->熊谷、40km×2)、駐車場(400円)、JR(神保原->熊谷、480円)、
食糧費:ラーメン(680円)、
里程、万歩計:熊谷->深谷宿(10.8km、20481歩)、深谷宿->本庄宿(神保原駅)(10.5km、19775歩+4.0km、9081歩)


中山道一人旅10(上尾宿、北上尾から)2013年02月07日 17時18分39秒

■上尾宿(北上尾)-->熊谷宿

前日は今年2度目の雪という予報だったので2月7日に実行した。予報では1月14日と同じくらいの大雪予報であったが、今回は前回ほど降らなかった。気温は朝のうちは低かったが、午後は晴れて暖かくなり歩き易かった。

●上尾宿(北上尾)->桶川宿(2013-02-07)
写真はお茶屋、島村老茶舗
桶川宿、古い商家  「御茶処」の看板を掲げている

家を7時に車で出発、8時北上尾駅前駐車場着。家を出るときはズボンの上にオーバーズボン、セーターを着ていた。暑くなることが予想されるのでズボンを脱いでオーバーズボンだけにして歩き出す。
駅に行ってトイレを済ませ駅前を8時10分スタート。駅東口を背に直進し旧中山道に出る。そこから北に向かって桶川宿を目指す。2km程で桶川宿、(南)木戸跡石碑、ここから桶川宿になる。道の左側に古い町屋つくりの旅館がある。竹村旅館と言って今も営業中、江戸時代は紙谷半次郎という旅籠であったという。
桶川宿は古い町家が何軒も残っている。桶川駅東口入口を過ぎ、右側に蔵造りの矢部家、左側に小林木材店があって今も住んでいるようだ。
写真は桶川本陣跡
桶川宿、本陣跡 奥の門の脇に明治天皇行在所跡碑
その先右手に、木の門があり桶川宿本陣遺構と書いた柱が立っている。ここは府川本陣の跡で和宮も宿泊したところ、また明治天皇も休憩した。門には「公開日でないのでこれより先はご遠慮下さい」との張り紙があった。
さらに進むと道路右側に(北)木戸跡碑、少し先の十字路手前に桶川宿石碑がある。この十字路(市役所入り口)までが桶川宿で、道路向い側が一里塚跡の碑があるらしいのだが、確認をせず通り過ぎてしまった。
 
●桶川宿-->鴻巣宿(2013-02-07)
桶川市を出て北本市に入ると本宿交差点脇に北本宿の碑(立場)がある。北本宿は中山道の宿場ではないのだが、かつて宿場があった。文禄年間(関ヶ原の戦い以前の1592年ころ)に今の鴻巣市に移された。元禄のころからは元の宿という意味で本宿と呼ばれるようになり、桶川宿と鴻巣宿の間で間(あい)の宿として賑わった。
右手に多門寺と天神社が並んでいる。多門寺には埼玉県指定の特別天然記念物、大きなムクロジ(羽根つきの)の木がある。少し先にある多門寺交差点を100m過ぎて旧中山道は右に折れて狭い道を抜けて駅前に進む。
写真は原馬室(はらまむろ)の一里塚
本(もと)宿、北本宿、原馬室一里塚

一里塚を探すため駅前で老人に尋ねると、駅の通路を渡って行けば小田急マンションの先にあると教えられた。駅の通路を通るぬけ駅西口に出て、線路沿いに1kmくらい進んだところで「原馬室一里塚」を見つけた。実は何度か人に尋ねながら到達できたのだが、駅の通路を使わないで駅前の道を直進し、最初の踏み切りを渡って線路沿いに探すのが正解。
一里塚から先、線路沿い北西に進む道はあるがこれは中山道ではない。旧中山道は消えてしまっていて、中山道は先ほどの踏切まで戻らなければならない。中山道に戻って道路左側に浅間神社、本殿は小高い山の上にある。ここは大宮台地で最も高いところらしい。
11時、鴻巣市に入ると「人形の町鴻巣」らしい店が続く。歴史資料館、古い町屋が多く残り、旅行者向け休憩トイレも木造で町の雰囲気に溶け込んでいる。
本町交差点を過ぎると右手に昭和初期に作られたと思われる木造の店「木村木材工業」がある。ここ向かい側に鴻巣宿本陣があったところ、本陣跡の石碑が立っている。
鴻巣駅入り口、鴻神社を過ぎると鴻巣宿も終わる。


●鴻巣宿-->熊谷宿(2013-02-07)
鴻巣市神加美で中山道の道標があって旧道は左にカーブ、JR高崎線を渡る。箕田観音堂を右手に見て12時近くに近くなった、左側にスーパーベルク宮前店があったので昼にする。
この辺りは東国武士、嵯峨天皇につながる源氏にゆかりのある地で箕田源氏発祥の地と言われているようだ。
右手に巨大な龍昌寺の石柱、その先には氷川八幡神社がある。氷川神社には箕田源氏の系図の説明板がある。武蔵用水に架かる中宿橋を渡る。武蔵用水は利根川の水を取水している行田市の利根大堰から流れるてくる。
写真は箕田分れ
鴻巣市、苗木  蓑田(みた)分かれ
その先道は左右に分かれ箕田追分。右は行田道、中山道は直進で中山道石碑や街道の説明板などがある。
旧吹上町前砂地区に入って少し開けたところ、道路脇に「ここは中山道前砂村」と書かれた道標がある。さらに少し行くとひっそりと「史跡 一里塚」と書いた白い木標がある。
旧中山道はJR吹上駅前を過ぎて本町、榛名陸橋(北)交差点で高崎線を渡る陸橋方面に向かう。陸橋の下には「吹上間の宿」碑や説明板などがある。
陸橋でJR高崎線を渡ったら線路沿いに行田方面に向かう。やがて道は狭くなり古くからある村落の中に入って行き、村落のはずれで荒川の堤防に突き当たる。そこに権八(延命)地蔵堂があり、地蔵とその言い伝えなどを書いた説明板がある。

写真は荒川河川敷と土手
熊谷市 荒川土手

ここから中山道は、左手に広大な荒川の河川敷を見ながら土手の上を1km近く進む。堤防の脇にある荒川の決壊跡碑を過ぎると大きなマンションが2棟ある。マンションの前に稲荷神社があって一里塚跡説明板が立っている。また、近くの草むらの中に馬頭観音もある。この辺り、駅はJR行田駅が近いが熊谷市になる。
中山道は荒川の堤防を右に下り、熊谷市久下地区に向かう。車もあまり通らない静かな古い集落の中を進む。右手に久下神社を見て、久下橋の取り付け道高架の下を抜ける。道端の民家の庭先、入り口左には「久下鍛冶・・」という石碑があり、右側には灯篭のようなものがあって、熊谷直光公によって刀鍛冶を許されたようなことが書いてあった。
少し行くとまたここにも権八地蔵がある。謂れは先の権八地蔵と同じ。中山道はこの地蔵脇から、再び荒川土手に上がりまた集落に下る。すると民家の垣根に「みかりや跡」の立て札がある。ここは忍藩(行田市)の殿様が狩りのとき立ち寄る場所だったので御狩り屋という。
写真は元荒川の源流
熊谷市 久下 元荒川の清流  ムサシトミヨの生息地
 
写真は八丁の一里塚
熊谷市 久下 八丁の一里塚跡 奥に上越新幹線が走っている
道路左に「東竹院」があるので寄ってみる。ここには達磨石と呼ばれる大きな石がある。この石は秩父から切り出された物で、忍城(行田市)まで筏で運ぶ途中で荒川に落としてしまった。何度か運び出そうとしたが荒川の洪水などもあって見失っていた。250年たった大正14年になって偶然東竹院の前の河原で発見されこの地に安置された。というようなことが脇の石碑に記述されている。
さらに進むと小さな橋があり綺麗な小川が流れている。ここは元荒川の源流で実に清らかな流れである。この小川こそ世界でも熊谷市にしかいない「ムサシトミヨ」の生息地である。我々が子供のころこのような綺麗な小川はどこにでもであったことを思い出す。
右手に佛説寺を見てまもなく「八丁の一里塚」跡がある。小さなお宮があり、立て札が立っている。
ここを出るともう熊谷駅は近い。寄り道をし、熊谷堤が万平公園に残っているので見に行く。残っている堤は200mくらいでサクラの並木になっている。
写真は熊谷駅と熊谷直実像
熊谷市 駅前 熊谷次郎直実の像

元の中山道に戻り秩父鉄道の踏み切りを渡り、新幹線の下、JR高崎線の踏み切りを渡る。左折すると駅前に出られるが直進し国道17号まで出る。国道を左折し、熊谷駅入口まで行ってから熊谷駅に戻る。熊谷駅前広場には熊谷次郎直実の馬に乗った像がある。JRで北上尾駅に戻り、車で家にかえる。帰宅は16時15分。

●データ
アルバム:中山道一人旅10<--クリック
交通費:車(家<->北上尾、16km×2)、駐車場(500円)、JR(熊谷->北上尾、400円)
食糧費:ベイシア(海苔巻寿司、お茶、476円)、
里程、万歩計:上尾宿、北上尾駅->桶川宿(2.0km:4548歩)、桶川宿->鴻巣宿(7.2km、12188歩)、鴻巣宿->熊谷宿(16.4km、24962歩)