あああ
プロフィール 住まい:埼玉県 性別 :男

中山道一人旅08(日本橋から)2013年01月18日 16時26分38秒

■日本橋->蕨宿

今年最初の中山道一人旅は日本橋から開始する。昨年、暖かい時期に山間部を歩き、寒いときに平野部を歩くつもりで、日本橋から横川までは歩いてなかった。今回はその埋め合わせをする。
14日には6年ぶりとかの大雪もあり、晴れの日が続くが気温が上がらない。道路脇にはそのときの雪が沢山残っている。今日も快晴で朝、電車の中からはっきりと富士山が見えた。
東京都内は見たい場所が沢山ある。新しい道が出来、旧道が消えていたりするので、少し寄り道をすると元に戻るのに迷ってしまうことが多い。寄り道などで予想以上に時間がかかったため、当初大宮まで行く予定であったが蕨で断念。5時近くなり薄暗いので写真も良く撮れない。体力的にはもう少し頑張れたがやむをえない。
●日本橋->板橋宿(平尾宿、仲宿、上宿)(2013-01-18)
今回痛恨の極み、万歩計を忘れてしまった。家を7時少し前に出発し、動物公園駅7時11分発の東横線直通「急行長津田行き」に乗って大手町まで行く。北千住駅乗換えと比べ時間的には変わらない、昨年暮れに京都に行くとき使ったが乗り換え無しはありがたい。
大手町には8時20分ころ着く、ここから日本橋に着いた時は8時50分になってしまった。大手町から東京駅にでる地下鉄連絡通路であまりにも時間がかかってしまった。もっと早く大手町で地上に出ていれば15分位で着けたと思う。
日本橋
写真は日本橋側と日本橋、上は首都高速
日本橋は日光街道一人旅で写真も撮ったのであまり見たいとこともなかったが、ヨウコから橋のどこかに麒麟の像があるはずだから動画に撮ってくる様に頼まれていた。確かに高速道路の真下、両側の欄干中央部にそれはあった。
日本橋で写真や動画を撮って9時に出発、日本橋を出て真直ぐ北に向かって神田駅方面に進む。日光街道は三越前を過ぎてから右に折れ浅草橋方面に進む、今回は直進する。長崎屋跡碑や今川橋跡碑などを確認し神田駅北口のガード下を通過する。長崎屋はオランダ人の宿泊所でシーボルトなどの定宿であったところ。今川焼きはこの近くが発祥らしい。
須田町で中央通りと分かれて中央線の高架脇を進む。中央線高架のレンガ壁のところに御成道説明板がある。御成道とは将軍が上野寛永寺に参拝するときに通った道。そのままレンガ壁沿いに進み、神田郵便局のところで右に折れJR中央線ガードを潜り昌平橋を渡る。昌平橋を渡ると新しい説明板があってこの辺りは神田旅籠町と呼ばれたらしい。旅籠町は八百屋お七の大火で類焼し、その後は、炭、酒などを扱う問屋街に変わったそうだ。
本郷通りに入って直ぐに神田明神があるのでお参りをする。通りを右手に折れ、大鳥居を潜って境内に入る。今日は18日なので参拝客はもう少ない。時間を見ると既に10時、地図ではまだ2kmくらいしか進んでいない。東京は見るところが多いので距離が進まない。神田明神境内脇の旧中山道200m位行ってから、また本郷通りに戻る。
東大、赤門
写真は東大赤門
本郷3丁目の交差点角に「かねやす」の看板を掲げた店がある。ここが江戸時代の川柳で「本郷もかねやすまでが江戸のうち」と歌われたところ。ここから先は在となる。右側は東大の赤いレンガの塀がしばらく続く。東大は加賀藩上屋敷跡、赤門は徳川家の姫が加賀藩に嫁ぐとき、前田家が建てたもの。赤門の向い側に法真寺があって樋口一葉がその隣に住んでいた。寺には入らなかった。
東大正門前を通りすぎて、東大農学部の交差点が「本郷追分」。ここから中山道(旧白山通り)は左に分かれる。直進するのが日光御成街道だ。ここに日本橋を出て最初の一里塚、追分の一里塚跡の看板があるはずだった。どうやら見逃したようだ。100mも行ってから通りすがりの年配の婦人に尋ねてみる。たしか、先ほどの角(追分)のところにあるはず言う。戻って写真に収める。またこの追分の角にある高崎屋(酒店)は宝暦年間の創業だという。
さらに旧白山通りを進み白山1丁目の信号機のあるT字路。ここで左に折れ狭い坂を100m下ると円乗寺がある。ここには八百屋お七の墓がある。お七は放火の罪で火あぶりになったのであるが、放火にいたる物語は知らなかった。
さらに本郷通り少し行くと右手に大えん(口の中に員)寺があって、ほうろく地蔵が祭ってある。火あぶりになったお七を慰めるために、お地蔵さまはみづから熱したほうろくを被っている。
東洋大を過ぎ、旧白山道りは大きな白山通りとの合流。旧中山道はここから先は白山通りを進む。近くに駒込富士神社と六義園があるので回り道をする。富士神社境内に富士山信仰のミニ富士山があり、徳川吉宗が置いた鷹匠屋敷があった。また、この辺りは江戸に野菜を強供給する一大基地で、駒込ナスの特産産地でもあった。「駒込の富士は二三も一ところ」と川柳に歌われた。今は富士しかない。
六義園は徳川綱吉の側用人で老中となる柳沢吉保の別邸。将軍綱吉も何度も訪れている。一度入ったことがあるので中には入らなかった。
巣鴨、徳川慶喜屋敷跡碑

写真は徳川慶喜、巣鴨居住跡碑
白山通りに戻りJRの巣鴨駅少し前の歩道脇に徳川慶喜巣鴨屋敷跡の碑がある。白山通りはJR山手線の上を通って、巣鴨商店街に進む。橋を渡って左手に染井吉野碑がある。この辺りは江戸の昔染井村があった。またこの地には植木屋が並んでいた。ソメイヨシノは幕末から明治時代このあたりで生み出されたもの。
少し進んで旧中山道は有名なとげぬき地蔵通りに入る。通りに入って直ぐに真性寺、ここに江戸六地蔵尊のひとつがある。地蔵尊にお参り。その昔、深川の地蔵坊正元という人が病の平癒のお礼に、江戸の主要街道筋に六体の地蔵尊を建てたという。
地蔵う通りは相変わらず年寄りでいっぱい。有名なとげぬき地蔵のある高岩寺でお参り。境内の洗い観音に水をかける人が大勢並んでいるのでこれは止めた。大勢並んでいるのでこちらがとげぬき地蔵だと思ったが、そのように勘違いをする人も多いらしい。
都電の庚申塚駅まで来ると人通りも少なくなった。都電の踏み切りの手前右側に庚申塚はあった。巣鴨方面からは隠れていて分かりずらく見逃して後戻り。ちょうど電車が来たので写真をとる。庚申塚駅を過ぎると古い町屋があったのでこれも写真に収める。滝野川、この辺を種屋街道とも言っていたらしいい。ガラス戸に「株式会社東京種苗」と書いてあった。
JR板橋駅の手前、今は何もないが平尾一里塚があった。また、ここには近藤勇の墓もある。ここも分からなくて老婦人に尋ねると、ああ近藤さんの墓は東口のほうですよと言われる。少し戻って教えられた方角に行くと駅前広場があり、道を挟んで反対側の四つ角にあり直ぐに分かった。新撰組の永倉新八が明治になって建てたもの。NHK大河ドラマでは香取信吾が近藤勇、山本耕史が土方歳三、ぐっさんこと山口智充が永倉新八。また、駅前には沢山のちょうちんで作ったやぐらがあった。先ほどの近藤さんという言い方をはじめ、この地では新撰組は親しみがあり、愛されているらしい。
首都高速の下、国道17号を斜め身横切ったところに東光寺、宇喜多秀家の墓がある。ここも少しまよって17号を東京方面に後戻りをして東光寺。2mくらいの高さの墓で「秀家卿」とだけ彫られている。また、かつて平尾一里塚にあったという地蔵尊と庚申塔が3つ並んでいる。宇喜多秀家は関が原の戦いのとき西軍の副大将であったが徳川軍に寝返った。しかしその後お家取り潰し、八丈島に島流しとなりその地で生涯を終えたが、265年後明治になって子孫が島から戻ってこの地に墓を建てた。
板橋宿は板橋駅(近藤勇の墓)辺りから始まっていて最初が平尾宿、仲宿、上宿と続く。平尾宿の脇本陣跡、板橋宿の脇本陣跡などを尋ねる。仲宿本陣前では高野長英ゆかりの石神医院があり説明板がある。
板橋宿、板橋(コンクリート製)
写真は石神井川に架かる、コンクリートでできている「いたばし」
平尾宿脇本陣跡碑、板橋宿本陣跡碑、脇本陣跡碑、問屋跡碑などを確認する。ちなみに近藤勇は千葉県流山、大久保と変名し官軍に出頭。しかし見破られ、官軍東山道軍の総督府のあるところであった板橋に連行。処刑まで平尾宿脇本陣豊田家に預けられ、後に板橋刑場で斬首された。その後京都に送られ三条河原でさらし首になった。
上宿の終わりのは・・川があり、木造風の橋が架かっている。これが板橋のいわれである。
●板橋宿->蕨宿(2013-01-18)
板橋宿を出ると縁切り榎がある。和宮は江戸入りのとき縁切り榎避けて通ったとされる。縁切り榎から少し戻り、和宮とは逆周りになるが縁切り榎の手前で左折し、大きくこの字型に歩き一旦環七通りに出てから国道17号(中山道)との板橋本町交差点を通り越し狭い旧道に戻る。
縁切り榎
写真は縁切り榎
志村一里塚(西塚)
写真は志村一里塚(西)
旧中山道は再び国道17号に合流し、1.5kmくらいで一里塚交差点がある。志村一里塚は国道を挟んで東西にある。塚は国道を挟んで4、50m離れているので、当時のものではなく再建したものと思う。
時刻は15時、志村坂上交差点を過ぎて清水坂を目指す。清水坂には志村坂上の五差路交差点でみずほ銀行脇の細い道を行く。坂の多い地形で道が複雑に枝分かれ、交錯していろ。ここでまた未知に迷ったようで、適当にそれらしい方角に進み、坂道を都営三田線方面に行く坂を下ると、坂道のの凍った雪を取り除いている人が居て、そこに清水坂の碑と説明板があった。ここから元の旧道に戻るのにも、散々遠回りをしたようで、ようやく環八と国道17号の交差点のところに出る。
交差点から再び国道を離れ700mほど旧道を進んでから志村坂下交差点を100mほど過ぎてで17号に戻る。新河岸川にかかる志村橋を渡ると、北区舟渡地区。視界も広くなってこの辺りから埼玉県を意識する。
戸田橋で荒川を渡ると埼玉県。橋から太陽が邪魔をするので写真には写らなかったが薄っすらと富士山が見えた。橋を渡ったら右手の階段を下って新幹線と埼京線の高架下を抜け、水神社と戸田渡し跡碑に向かう。
少し戻って、旧中山道を1km進んで戸田本町交差点から再び国道17号に出る。時間は4時を過ぎた、陽も傾き両側のマンションの陰になり少し暗くなってきた。16時45分、蕨市に入った。少し行くとシェルスタンドのところから旧道は右に入り、ここから蕨宿。宿の入り口、Y字路のところに大きな中山道蕨宿碑がある。また、宿入り口に中央が離れている鳥居らしきものも架かっている。
蕨宿入り口、蕨宿の碑

写真は蕨宿入り口のY字路にある碑
蕨宿は街並み保存の努力が垣間見られる。宿開設400年の旗が掲げられたり、古い町屋様式の店などがある。もう少し武蔵浦和まで行けば埼京線の駅は近い。しかし、暗くなり写真が取れなくなったので、うなぎやの所から蕨駅に向かう。駅までは1kmあり結構疲れた。
17時16分京浜線大宮駅行き、埼玉新都心で乗り換え17時23分黒磯行きの電車に乗り、新白岡は17時45分。家には5時前に着いたがあたりは真っ暗。
 
 
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交通費:東武、地下鉄半蔵門線(東武動物公園->大手町、690円)、JR(蕨->新白岡、480円)
食糧費:大判焼き(85円×2ヶ)みやげ(かのこ:600円)
里程、万歩計(推定):日本橋->板橋宿(9.8km+3km:7132)、板橋宿->蕨宿(9km)
+3kmは回り道(六義園、縁切り榎)、推定(万歩計忘れ)、35000歩 


中山道一人旅09(蕨宿から)2013年01月31日 09時57分03秒

■蕨宿-->上尾宿(北上尾)

JR新白岡駅まで車で送ってもらう。7時31分発に乗って蕨駅到着8時10分。このところ毎日晴れの日が続いているが、まだ日陰には14日に降った雪が残っている。朝のうちは気温も低く、風もなく天気が良かったので上尾までの予定を延長し、その先の北上尾まで行くことが出来た。
脇道に少しそれて氷川神社にも参拝、また、事前調べておいた「狼煙」でラーメンを食べた。この店は、数年前から一度行って見たいと思っていた店で埼玉県でも人気のラーメン店だ。
●蕨宿->浦和宿(2013-01-31)
和楽備神社
写真は和楽備神社
8時30分蕨駅出発、旧中山道までは真直ぐ西に約1kmある。まず、途中の和楽備(わらび)神社に寄ることにする。駅から神社方面に真西に行く道はない。1,2度尋ねながら10分ほどで到着。ここは蕨城のあったところでもある。社殿は新しく立派なつくりだ、平日の朝にもかかわらず、近隣の人と思う散歩がてらの人が何人もお参りに訪れる。
蕨宿本陣跡を訪れるべく、神社の南側の城跡であった公園の脇を南に進む。200m位進んで少し大きな通りに出る。右に進路を取って行くと、見覚えのあるうなぎやがある交差点に出た。前回はこの交差点で終了し駅に向かった。
蕨本陣跡、岡田家
写真は蕨宿本陣跡、岡田家
交差点から旧中山道を北に向い、直ぐに蕨市立歴史民俗資料館がある。時間が早いのでまだ開いてない。蕨宿本陣跡はその並びにある。現代風だが、黒い柱と白壁を基調にした落ち着いた雰囲気の門構えで、「蕨本陣」と書いた大きな板と本陣跡の碑がある。
街道沿いには、傷んでいるが古い町屋が何軒か残っている。また、新しいが江戸時代の町屋風に造った店屋もあって、落ち着いた往時を偲ばせる雰囲気が漂う。
蕨宿出口手前の道路わきに「地蔵の小経」と彫ってある石柱がある。わき道を100m位行くとここは三学院というお寺で、そこの地蔵尊にお参りをする。
写真は辻の一里塚跡
辻の一里塚跡
蕨宿を出て中山道は500mほど進み、国道17号と交差してからさらに直進する。蕨市からさいたま市浦和区に入って行くと、かつてのメインストリートも現在では国道の裏道になっているので車も少ない。東京外環道路の手前に辻一里塚跡があり、小さな祠が建っている。
外環の道下を過ぎ、さいたま市浦和区六辻で再び国道17号を渡る。500m位で坂道があって歩道橋が架かっている。歩道橋に焼米坂の表示がある。かつてこの辺ので名物の焼き米を打っていた店があったそうで、「焼米坂」の石碑がある。
武蔵野線のガードを過ぎて1km位行くと右側に調(つき)神社がある。敷地もかなり広く、裏手は公園になっている大きな神社だ。この神社は鳥居が無いのと、狛犬が無いのが特徴らしい。かつて朝廷に納める調物(みつぎもの)を集める場所になっていた。そのため、ものを出し入れ易くするために鳥居がない。また、どの神社にもある狛犬がく、代わりに「狛うさぎ」がある。調(つき)から月をイメージし、そこからうさぎのイメージを呼び起こしたのだろうとガイドブックに書いてあった。
●浦和宿->大宮宿(2013-01-31)
10時15分、調(つき)神社を出て300mで浦和宿石碑があり浦和宿に入る。浦和駅西口交差点、左折すると埼玉県庁、この辺りは浦和宿下宿と呼ばれた。上宿に入ると二.七市場跡の碑が歩道脇にある。少し左奥に慈恵稲荷があってそこに説明板ある。説明には戦国時代から浦和市(いち)としてすでに市場があったこと、十返舎一九が歌に詠んだことなどが記述してある。
先ほどの浦和駅西口交差点を過ぎて直ぐに左手の路地を入ると仲町公園がある。ここが浦和宿本陣跡で明治天皇行在所碑があり、浦和宿本陣跡の説明板がある。実はうっかり通り過ぎてしまい確認出来ていない。
浦和レッズ、岡野選手の足跡
写真は浦和レッズ、岡野選手の足跡
北浦和駅前を過ぎると廓信寺がある。入り口にサツマイモの女王・紅赤(金時いも)、発祥の地と書いた説明板がある。この近くの農婦が突然変異によって出来た味が良くて真っ赤ないもを発見した。そのいもが評判になって、関東一円に広まった・・・と書いてある。もちろん川越のいもも金時いもだという。
旧中山道といってもこの辺りは、大宮駅東口とさいたま新都心のショッピングモール(コクーン)を結ぶメイン道路なので車が多い。与野駅入り口の手前に、一本杉の石碑がある。この近くで幕末に仇討事件があったらしい。そのことを書いた看板が一本杉の石跡碑のところにある。
与野駅入り口を過ぎるとケヤキ並木がしばらく続く。今の時期のケヤキは葉も落ちて、枝も切り落とされていて感じるものも少ないが、新緑の時期や紅葉の時期は堂々として大変美しいものだと思う。
さいたま新都心駅からコクーンに行く通路の下を抜けると、まもなく氷川神社の一の鳥居がある。氷川神社へはここから参道を2kmほど直進するが旧中山道を大宮宿まで進む。
写真は氷川神社一之鳥居
氷川神社一之鳥居
時刻は12時、氷川神社一之鳥居を過ぎてさいたま市大宮区に入った。吉敷町交差点から大宮宿となる。交差点を50m位過ぎて左手に橋本家門がある。この門は明治になって加賀藩下屋敷から移築したものだそうだ。門にポスターなどが何枚か張ってあって少し残念。
大宮宿の本陣跡は、大宮駅前交差点を過ぎ、駅前とつながっているすずらん通りにある。飲食店などが密集し、人がごったがえしている狭い通りで何度か通ることもあったとこ。その時は気づかなかったが本陣跡の説明板や本陣稲荷などがある。
旧中山道を大栄橋交差点まで行って、東に左折して東光寺の前を通り氷川神社に向かう。ちょうど氷川神社の二之鳥居のところに出たのでここから参道を進む。参道には神社に参拝する人、ランニングをする人、幼稚園か保育園の散歩する園児などがいてにぎやかだ。参道をしばらく歩くと右側にだんご屋があった、参拝客がまんじゅうやだんごを店先で食べているので寄ってみた。団子を2本買い、少しおなかが満たされた。参道をさらに進み三之鳥居、神橋、楼門を通って本殿に参拝。
●大宮宿->上尾宿(北上尾駅)(2013-01-31)
氷川神社から裏参道を通り西に向かう。東武野田線北大宮駅前で再び中山道にもどる。東武線、宇都宮線のガード下を抜けるとさいたま市北区。ここまで来るともう大宮の賑わいはない。
大山御嶽山道標(神奈川県の大山、青梅の御岳山)、脇道を300m位入って住宅地の中にある八百姫大明神(八百姫伝説)を確認し淡々と歩く。
写真は狼煙、つけ麺並み
狼煙、つけ麺並み
13時を過ぎ、氷川神社でだんごを2本食べただけなので腹が減っている。今日ので昼飯はラーメン「狼煙」に前もって決めていた。平日で13時過ぎにも関わらず、店の前には6、7人並んでいる。15分くらい待って店内に入るとカウンター席のみで10人ほどしか座れず満席。食券を買って待ち椅子に座り更に10分ほどで席に着き5分、注文のつけ麺並みが出てきた。少し魚介を利かしたスープは評判にたがわず、さすがに美味しい。麺は自家製とか、太麺でコシがある。並盛200gでおなか一杯で満足。しいて言えばチャーシュー味がもう少し欲しい、淡泊に感じる。柔らかさととろみがもう少し欲しい。
新幹線と埼玉新都市交通のガード下を抜け、国道17号を渡って淡々と歩く。国道16号バイパスの先、左側に駐車場の一角に古いのでくて字が読めない馬頭観音石碑がある。石碑の周りは真っ白の御影石の小石が敷き詰められていた。新しい花立もある。いまでも近所の人が大切に馬頭観音を守っている様子が窺える。
15時15分上尾陸橋の交差点に到着、ここから上尾宿。右折すると上尾運動公園、左折するとJR高崎線を跨ぐ上尾陸橋。
上尾駅東口入り口手前に氷川鍬神社がある。道路を挟んで向かい側の商業施設が密集している。この商業施設辺りが本陣跡だが何もない。神社側の歩道脇に上尾宿の様子を偲ばせる説明板があるのみ。
写真は上尾宿説明板
上尾宿説明板
駅前を過ぎてしばらく行くと、道路右手に竹林のある庭、黒を基調にしたシックでモダンな店構え、入り口には杉玉の掛かっている「文楽、東蔵」という布看板。ここは造り酒屋でもあり、蕎麦を食べさせるレストランのようだ。
文楽から少し行くと今度は「彩の国平成の道標」がある。案内板の屋根には鍾馗様が載っている。江戸時代上尾宿でも何度も火災に見舞われた、そのため町屋では火除けに屋根に鍾馗様を立てるようになったという。屋根に「水」の字を書くのも同じ意味。
時刻は16時、北上尾まで来た。新白岡駅から日工大のスクールバス時刻が17時にある。桶川宿まで行くとスクールバスに間に合わないのでここまでとする。

●データ
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交通費:JR(新白岡->蕨、480円)、JR(北上尾->新白岡、480円)
食糧費:だんご(2本、200円)、ラーメン(750円)
里程、万歩計:蕨宿->浦和宿(6.4km:10188歩)、浦和宿->大宮宿(5.0km、8851歩)、大宮宿->上尾宿、北上尾駅(9.9km、18089歩)